2011.07.07 Diary

ボランティアに参加して思ったこと – 現場編

6月10日〜16日までの都民ボランティアに参加して、現地で知り合った人から聞いた話を一部ご紹介しようと思います。

頭の中を整理するのに少し時間がかかりましたが、これは自分の中でしっかりと覚えておきたいことなので、もしよろしかったら皆さんも読んでみてください。

私が活動させていただいた大島と気仙沼の地図です。

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宿の主人、村上さんの体験

滞在3日目の夜、宿の主人である村上さんはボランティアのメンバーのために被災されたときの様子をお話してくださいました。

村上さんは震災の当日、たまたまお子様の予防接種のために
奥様と一緒に気仙沼の病院へ行かれていたそうです。
津波警報が発令されたときも病院内に避難したから、ご家族全員助かったとおっしゃっていました。

その日は病院内で夜を明かしたとのことですが、翌日は病院から隣の専門学校に移動して再び夜を明かしたそうです。
停電のため暖房設備もなく、寒くてとても眠れなかったとおっしゃっていました。

病院で夜を明かしたとき、村上さんはご自身の目で
燃え広がる気仙沼の街の様子を御覧になっていたそうです。

私もテレビで気仙沼の街が火災に包まれる様子を見ていましたが、
上空から見ていた景色と、横から見ていた景色とは全く違うものだったと思います。

停電で真っ暗闇の中で勢いよく燃え広がる炎。木材が破裂する音、そして焦げたにおい。
想像を絶します。

村上さんは、今回のことについてこのようにおっしゃっていました。

「助かったのはたまたま運がよかっただけ。ただそれだけ。」

大島へ帰る事ができたのは、それから一週間以上経ってからのことだったそうです。

アメリカ軍の支援

大島へ戻られてから、間もなくしてアメリカ軍の部隊が大島へやってきます。
大型の車両や重機、そして米兵の皆さんの力によって散乱していた瓦礫がものすごいスピードで綺麗になったそうです。
車両や重機の大きさはもちろんのこと、日本人との体格の差を強く感じられたそうです。

米兵のみなさんが大島を去られるときは島の人たち全員で見送ったそうです。
私はこのような現状を聞いたとき、米軍に対して賛否両論がある中で米軍の存在の大きさを感ぜずにはいられませんでした。

また、大島が断水している間、島の住民の方は軍事用ヘリで海上に停泊している護衛艦『ひゅうが』まで行き、お風呂に入っていたそうです。
そういう現状があったなんて知らなかったので、驚きました。

行政の2次避難所の割当について

村上さんがお話されていた中で、私がとても印象に残っていたのは、
行政による住民の2次避難所への割当についてでした。

1次避難所である学校から2次避難所である民宿等へ移動振り分ける際、
行政が優先したのは「子供」だったそうです。

つまりは、子供がいる世帯はお子様が学校が通いやすいように、
学校になるべく近い2次避難所が優先的に振り分けられ、
それ以外のご高齢の方などはいくら自分の家から近い2次避難所があったとしても
入ることが出来なかったということです。

他の2次避難所でも子供たちが充分に学校へ通える距離であると主張したところで
行政からは「一度決めたものは変えられない」ということで聞き入れてもらえず、
2次避難所には若い世帯の人たちが集まってしまったり、
ご高齢の方が集まってしまったりという現象が起こってしまっているとおっしゃっていました。

そのため、ご自宅の片付けをするのに毎日片道40分ほどかけて通われるご高齢の方も
中にはいらっしゃるとのことでした。
コミュニティー単位など、もう少し柔軟に対応できてもいいのではないかと思わずにはいられませんでした。

仮設住宅について

村上さんの宿は2次避難場所として、現在数名の被災者の方を受け入れており、
そこでの滞在費・食費は全て行政によって支援されているとのことです。

しかしご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、
現在準備が進んでいる仮設住宅ではあくまで「入居者の自立」を求めるものであるため、
水道や光熱費、食費などが入居者の負担になるとのことです。

家も財産も仕事もないご高齢の人たちは、どうやってそのお金を捻出したらいいのだろう。
仮設住宅という箱を与えて、自立してくださいって言っても、そんなの無理に決まっている。
村上さんはこのようなことをおっしゃっていましたが、本当にその通りだと思いました。

仕事や収入がある人はいいかもしれないけれども、きっとそういう人たちはほんの一握りの人たちにすぎないと思います。
突然の災害に襲われて、全てを失って、中には身内も失って、3ヶ月もしないうちに
「自立への第一歩」として仮設住宅を与えられても、どうやって自立していいのだろう。
途方に暮れている中、追い打ちをかけるような言葉でしかありません。

仮設住宅という目に見える形の支援をすることも大切かもしれないけれども、
それ以上にもっと長期的なスパンで被災者のケアをし、支援する仕組みが必要なのだと思う。

また、日本の行政を象徴する縦割り構造についてもお話していました。
私も日本の行政の縦割り構造については少なからず知っていましたが、
こういう状況下においても、それがしっかりと根付いていることに驚かされます。

2次避難については民宿だから観光課へ、仮設住宅については福祉事業所へ、っというように行政の中で明確に線引きされていて、管轄外のことは聞く耳を持ってくれないとの悲しい現状も聞きました。

おばあさんの体験

滞在中、お風呂場でたまたま現在2次避難所として宿で暮らしていらっしゃるおばあさんと一緒になりました。
背中もまるく、「腰が痛くってねぇ・・・」っと言って話かけてきてくれたのですが、
笑顔がとてもチャーミングで、声はハキハキと元気で明るい。

おばあさんは何気ない日常会話から、被災当時のことも話してくれました。
そのおばあさんも一人暮らしで、津波の警報が出たときは急いで高台の方へ逃げたそうです。
逃げている途中、車に乗る人に助けを求めたけれども誰も止まってくれず、
結局自分の足で必死で避難し、なんとか助かったとおっしゃっていました。

「自分の身は、自分で守るしかねぇよ。」

とても悲しい言葉ですが、これが現実なのだとも思いました。
災害時は本当にみんな自分の事で頭がいっぱいで、周りなんて気を使っている場合じゃない。
近所付き合いのある大島でもそうなのだから、
東京などの大都市で災害が起こった場合は一体どうなってしまうのだろうっと考えずにはいられませんでした。

大島をはじめ、被災地域では引き続きボランティアの方の力を必要としています。
現場を見てしまうと、必要とされているのは人の力であると強く感じました。
私も微力ながら、どこかのタイミングでまた参加したいと思っています。

気仙沼市のボランティアセンターでは、団体での大島バスパックを募集しています。
よかったら御覧になってください。

気仙沼災害ボランティアセンターKese

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※この記事で掲載している写真は村上さんが震災直後に撮影したものであり、村上さんのご好意により掲載の許可を頂いております。
※この記事の内容は6月10日〜16日までの間で聞いたことをまとめたことなので、現状とは一部異なることがあるかもしれません。

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